イエスにとどまり、実を結ぶ人生 (ヨハネの福音書 15:1〜8)
브라우저를 최신 버전으로 업데이트하시거나
구글 크롬 브라우저를 통해 이용해 주세요.
* VOD 플레이어는 Internet Explorer 11,
Edge, 크롬 브라우저에 최적화되었습니다.
플레이어 이용 시 불편한 사항이나 개선되었으면
하는 사항이 있다면 자유롭게 남겨주세요.
더 나은 서비스를 위해 노력하겠습니다.
의견 남기기 →
リビングライフ
동영상 소개
1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
今日のみことばの要約
イエスはまことのぶどうの木、神は農夫、私たちは枝です。イエスにとどまっていないなら、枝のように投げ捨てられます。私たちがイエスにとどまり、イエスが私たちにとどまっているなら、多くの実を結び、父なる神が栄光をお受けになります。また、イエスの弟子となり、何でも求めれば、かなえられます。
みことばから
まことのぶどうの木イエス (15:1〜4)
旧約聖書の中で、ぶどうの木はイスラエルのたとえで使われることがあります(イザ 5:1〜7)。ぶどう園の「農夫」は、神です(1節)。農夫は、多くの実を結ぶようにぶどうの木の手入れをします。ぶどうの木につながっているのに「実を結ばない枝」は(2節)、イエスのことばに親しまず、信仰が成熟していない人を指しています。イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と言われました(1節)。これは、イエスがご自分の正体について宣言された7度目のことばです。ここで「まことの」は、「真実な」という意味よりも「唯一の」という意味で使われています。すなわち、イエスは、人々が正しく生きられるようにし、真理といのちへと導く「唯一の」救いのぶどうの木だという意味です。イエスにとどまらないなら、だれも救いの実を結ぶことができません(4節)。
- イエスがご自分を「まことのぶどうの木」にたとえた理由は何ですか。ぶどうの木であるイエスにつながり続けるためには、どんな努力が必要ですか。
イエスにとどまるべき理由 (15:5〜8)
母体とへその緒でつながっていることで胎児の生命が維持されるように、私たちもイエスとつながっていることでいのちを得、多くの実を結びます(5節)。イエスは「わたしにとどまりなさい」(4節)と命じられます。イエスにとどまらなければ、私たちは実を結ばない枝のように投げ捨てられます(6節)。このとき、その枝は、他からの力によって落とされるではなく、自ら落ちていくのです。そのように落ちて枯れた枝は、結局、火に投げ込まれて燃やされてしまいます。私たちは、イエスを離れたら何もできません(5節)。いのちを維持し、多くの実を結ぶ秘訣は、イエスにとどまることなのです。
- イエスにとどまらない人は、結局、どうなりますか。主があなたに願っておられる実は何であり、そのためにあなたができることは何でしょうか。
きょうの祈り
まことのぶどうの木であるイエス様、私が力強く生きる道は力を尽くして主とともに歩むことだということが分かりました。自分の力で成し遂げようとする無駄な努力を捨て、主にとどまり、拠り頼みます。主の真理といのちが私の人生に流れ、豊かな実を結べますように。
*リビングライフの文章のコンテンツ著作権は、ツラノ書院にあります。
공감 나눔 총 댓글2419개